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「私は生き残りたい」深刻化する人身取引に揺さぶられるベトナム【前編】被害に遭う女性や子どもたち

巣内尚子研究者、ジャーナリスト
ベトナムの女性と子ども。筆者撮影、ハノイ市。

5月にオバマ米大統領が公式訪問し、世界的に注目を集めたベトナム。経済面でも「チャイナプラスワン」の有力投資先としてみられ、日本を含めた各国企業の対越投資や対越貿易も拡大するなど、急速な成長を続けている。だが、華々しい経済成長の半面、この国は深刻な課題に直面している。それが人身取引の問題だ。ベトナム国内でも人身取引がある上、ベトナムと国境を接する中国やカンボジアなどへ、ベトナムから女性や子どもたちが売られるケースが増えている。人身取引被害者は強制労働をさせられたり、強制的に結婚や売春をさせられたりと、大きな苦難を経験しているという。ベトナムでいま、何が起きているのか。人身取引をめぐる動きを追いたい。

◆経済成長の中での人身取引被害

ブルードラゴンのマイケル・ブロウスキさん。筆者撮影、ハノイ市。
ブルードラゴンのマイケル・ブロウスキさん。筆者撮影、ハノイ市。

「私たちは、人身取引の被害者を救出するための取り組みを行っています。被害者の居場所を特定した後に救出し、被害者を家族のもとにもどそうと取り組んでいます」

ハノイ市にあるストリートチルドレンや人身取引被害者の支援組織「ブルードラゴン・チルドレンズ・ファンデーション(Blue Dragon Children's Foundation)」の代表を務めるマイケル・ブロウスキさんは、静かな口調でこう説明した。

それは今から3年ほど前、2013年のことだった。

私がベトナムとのかかわりを持ち数年たったころ、ふとしたきっかけでブルードラゴンの存在を知り、ある日、ハノイ市にある事務所に彼を訪ねたのだった。

人身取引に関して、当時私はそれまで特別な知識を持っていたわけではなかった。

偶然、ブルードラゴンの存在とベトナムで人身取引事件が起きているということを知り、自分が普段のハノイでの暮らしの中で見ていたこととの違いに驚き、まず話を聞きたかったのだ。

突然の依頼にもかかわらず、面会の時間をくれたブロウスキさんは、穏やかな表情をした豪州出身の男性だった。

もともと英語教師としてベトナムにやってきたブロウスキさん。ある時、街中でストリートチルドレンの子どもたちに出会ったことから、子どもたちを放っておけないと、ストリートチルドレンの支援活動を開始した。

そのうちにブロウスキさんのもとには、多くの子どもたちが集まるようになったという。

こうした子どもたちの存在から、ブロウスキさんは自らブルードラゴンを立ち上げ、ストリートチルドレンの支援活動を本格的に行うようになった。

ブロウスキさんはさらに、人身取引被害者の救出活動も行うようになる。

大人の保護のもとから離れ、路上で暮らすストリートチルドレンは、誰かに誘拐されたり、だまされたり、あるいは脅されたりし、人身取引の対象になることがあるため、ストリートチルドレンの支援活動と人身取引対策はつながりを持つためだ。ストリートチルドレンがだまされたりし、どこかに連れ去られ、工場などで違法な児童労働に従事させられるといったケースがあるという。

「その後、活動を進めるうちに、ブルードラゴンは人身取引被害者を救出するためのノウハウやネットワークを構築し、被害者の救出活動を展開するようになりました」。ブロウスキさんはこう話す。

すでにブルードラゴンでは人身取引被害者の救出を行うスタッフの育成が進み、これまでに多数のスタッフがこの活動に参加し、ストリートチルドレンや人身取引被害者の支援に当たっている。

◆経済成長時代に存在する児童労働や強制売春

経済成長の中で開発の進むベトナム。筆者撮影、ハノイ市。
経済成長の中で開発の進むベトナム。筆者撮影、ハノイ市。

ベトナムは経済成長著しい新興国として国際的に注目を集めている。

ハノイ市やホーチミン市など都市を中心に、モダンな商業施設や集合住宅の建設が広がり、バイクや自動車がひっきりなしに通る道路に立つと、この国の力強く大きな変化を感じることもある。

しかし、その国の中で、誰かが人身取引の被害に遭っている。工場で違法な児童労働に従事させられたり、どこかに連れて行かれ、売春をさせられたり、強制的に結婚させられたりする事例が起きているのだ。

ハノイ中心部の高級集合住宅。筆者撮影、ハノイ市。
ハノイ中心部の高級集合住宅。筆者撮影、ハノイ市。

明るく居心地のよいブルードラゴンの建物には、ストリートチルドレンなど支援対象者が集まることのできるスペースが用意されている。

私が訪問したのは暑い季節で、天気がよく、空は晴れわたっていた。そして、建物のどこかから、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。

楽しそうな子どもたちの会話の様子と、和やかな雰囲気のブルードラゴンの建物。

でも、ブルードラゴンが支援しているのは、路上で危険にさらされることも多いストリートチルドレンに加え、自由を奪われ売られた経験を持つ人身取引被害者だ。

静かで和やかなその場所で話を聞くうち、この国のかかえる課題の重さに、私は考えこむほかなかった。

◆増加する被害と待たれる対策

ハノイにある文廟。筆者撮影、ハノイ市。
ハノイにある文廟。筆者撮影、ハノイ市。

それから数年。2016年2月後半のハノイ。ベトナム最古の大学が置かれたという「文廟(孔子廟)」の近くにある、ストリートチルドレンの支援組織「KOTO(コト)」が運営するレストランで、国際協力機構(JICA)の人身取引対策専門家である小川佳子さんから話を聞く機会を得た。

四季のあるハノイは冬に気温が下がる。その日も寒く、小川さんも私も厚手の上着を着こんだまま、レストランの席についた。

席に向かい合った小川さんは、「ベトナムの女性が人身取引の被害に遭い、結婚や売春を強制されるケースが増えています」と説明した。 

JICAは2012年7月から2016年3月までの期間、ベトナムに小川さんと、JICA本部で人身取引案件を担当していた合田佳世さんらを専門家として派遣し、人身取引被害の予防と人身取引被害者保護に向けた全国レベルのホットラインの設置プロジェクトを進めてきた。

プロジェクトの背景にあるのは、ベトナムにおける人身取引被害の拡大だ。

JICAの「ベトナム社会主義共和国 人身取引対策ホットラインにかかる体制整備 プロジェクト 詳細計画策定 調査報告書」 によると、ベトナムでは「女性と子どもの人身取引予防・撲滅にかかる国家行動計画(2004~2010)」の実施以降、2004年から2009年の6年間において、人身取引は計2,015件発覚した。

この中で、被害者4,924人が認定された上、加害者3,571人が検挙された。同計画実施以前の1998~2003年の6年間と比べて人身取引事件が2.5倍に増加した格好だ。人身取引事件が増加しているのだ。

最近では国内における農村から都市への人の移動の広がりに伴い、人身取引が疑われる事件が起きたり、国境を超える移住労働や国際結婚の増加に合わせて海外の仕事をあっせんする仲介業者や知人などにだまされ人身取引の被害に遭ったりするケースが増えているという。

しかし、人身取引被害が増える一方、対策は十分ではない。

小川さんは、「これまでベトナムには、人身取引対策に向けて包括的な情報を提供する公的機関は存在せず、警察や人身取引被害者の保護シェルターなど関係機関の横断的な連絡体制が確立していませんでした」と話す。

◆電話相談窓口と組織横断的なネットワークの構築

ベトナムの男女と子どもたち。筆者撮影、ハイフォン市。
ベトナムの男女と子どもたち。筆者撮影、ハイフォン市。

そうした中、今回のプロジェクトで、JICAはベトナム労働傷病兵社会省(MOLISA)をパートナーとして、ベトナムの首都ハノイ市、カンボジアとの国境にある南部アンザン省、中国との国境にある北部ハザン省に、それぞれホットラインを設置し、ホットラインを運営できる体制の整備を図った。

ホットラインは人身取引に関するさまざまな相談を受け付けるコールセンターで、ここで得た情報をもとに各関係機関が連携しながら被害者の保護や、社会復帰の支援もする。

アンザン省とハザン省にホットラインを設置したのは、両省がそれぞれカンボジアと中国の国境に接し、両省の人が人身取引の被害にあったり、両省が人身取引の経由地になったりするケースが多いからだ。

プロジェクトでは具体的に(1)ハノイ市、アンザン省、ハザン省で人身取引ホットラインの運営にかかわる協力体制の構築(2)人身取引対策ホットラインの運営システムの整備(3)プロジェクトにかかわるスタッフのカウンセリングやケースマネジメントなどの能力強化(4)アンザン省とハザン省における人身取引および人身取引対策ホットラインに関する人々の知識・認識の向上――を目指して取り組んできたという。

ベトナムの女性と子どもたち。筆者撮影、ハイフォン市。
ベトナムの女性と子どもたち。筆者撮影、ハイフォン市。

これによりホットラインの本部が置かれたMOLISAをまとめ役とし、公安省(警察)、国境警備隊、ベトナム共産党傘下の女性組織「女性連合」、ターゲット省(ハザン省、アンザン省)、MOLISAの海外労働局と社会悪防止局、その他の関係機関などが横断的に連絡を取り合える体制を構築することが図られた。

同時にホットラインで相談を受ける電話相談員の研修を行い、研修員のスキル向上が目指された上、各地で人身取引やホットラインに関する広報活動などが実施された。( 「私は生き残りたい」「深刻化する人身取引に揺さぶられるベトナム【後編】に続く)

■用語メモ

【ベトナム】

正式名称はベトナム社会主義共和国。人口は9,000万人を超えている。首都はハノイ市。民族は最大民族のキン族(越人)が約86%を占め、ほかに53の少数民族がいる。

【人身取引】

「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性及び児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書(人身取引議定書)」 では、人身取引を以下のように定義する。

「搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。」(同議定書第3条(a))

【人身取引とベトナム】

米国務省が発表した「2015年人身売買報告書(Trafficking in Persons Report 2015)」では、各国の人身売買状況について、最上位の「ティア1」(米国の「人身売買被害者保護法」の最低基準を満たしている)、これに続く「ティア2」(最低基準を満たさないが努力中)、最下位の「ティア3」(最低 基準を満たさず努力も不足)にランク付けしているが、ベトナムはティア2に位置づけられている。

研究者、ジャーナリスト

東京学芸大学非常勤講師。インドネシア、フィリピン、ベトナム、日本で記者やフリーライターとして活動。2015年3月~2016年2月、ベトナム社会科学院・家族ジェンダー研究所に客員研究員として滞在し、ベトナムからの国境を超える移住労働を調査。一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了(社会学修士)。ケベック州のラバル大学博士課程に在籍。現在は帰国し日本在住。著書に『奴隷労働―ベトナム人技能実習生の実態』(花伝社、2019年)。

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