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ヴィッセル神戸の吉田孝行が引退を発表。 戦い続けた19年のプロ生活を振り返る。

高村美砂フリーランス・スポーツライター

10月24日。ヴィッセル神戸のFW吉田孝行が今シーズン限りでの現役引退を引退を発表した。兵庫県の滝川第二高校を卒業後、プロとしてのキャリアをスタートさせたのが95年。以来、19年もの年月において『プロは結果で評価される』との思いで戦い続けてきた男が、自らに下した決断だった。

「ここ数年は、毎年『引退』を覚悟しながらプレーしてきた自分がいて。去年も同じように引退を考えたこともあったけど、結果的に神戸がJ2に降格してしまいましたから。その中でクラブからも求めていただいたこともあり『あと1年、神戸を昇格させるために戦おう』という思いでこの1年を戦ってきました。ただ、以前から言っているようにプロは結果が全てですから。今季も『必ずJ1昇格の力になって引退しよう』という思いで戦ってきて、もし最低でもゴールを10点くらい獲れれば、現役を続行できる可能性も自分に見出せるかなと思っていたんですが、今季の出場時間を見ての通り、力になるどころか、殆ど試合に絡めていませんから。これまで、自分自身が万全の状態で試合に絡めなかったのはプロ2年目、フリューゲルスでの96年くらいですが、この年もベンチには入り続けていましたからね。これまでのサッカー人生において、ここまで公式戦から遠ざかったシーズンはなかっただけに、この現状をプロとして受け入れざるを得ないと考え、引退を決意しました。」

95年。吉田のサッカー人生は横浜フリューゲルスで幕をあけた。中学時代までは無名に近かった彼を滝川第二高校のセレクションで見出してくれた当時のゲルト・エンゲルスコーチが横浜フリューゲルスのコーチを務めていた縁や高校の先輩、GK森敦彦らがいたこともあって、同クラブへの加入を決める。しかもルーキーイヤーから出場機会をものにした吉田は、またたく間にチームの顔の一人に。その後、横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併されるまで、主力として活躍し続けた。

「当時は山口素弘さんをはじめ、ジーニョ、サンパイオ…と素晴らしい選手がいた時代で。彼らと一緒にサッカーを出来たことは僕のサッカー感を大きく変えた出来事でした。中でもジーニョの存在は衝撃でしたね。正直、僕とは次元が違い過ぎて、彼に追いつこうとか思えるレベルではなかったですが(笑)、そういう選手を通して『世界』を知り、サッカーに対する欲を膨らませていけたのは、本当にラッキーでした。」

だが、98年10月、チームは経営破綻によるマリノスへの吸収合併を発表する。その事実をクラブから紙切れ一枚で伝えられた日、吉田は帰宅後、あまりの衝撃に猛烈な吐き気に襲われ嘔吐したそうだ。だが、その事実は皮肉にも、チームとしてより強固な団結力を生み、横浜フリューゲルスは合併発表以降の公式戦で一度も負けることのないまま、天皇杯優勝をクラブの最後の記録としてその歴史に幕を閉じる。その優勝を決めた国立競技場での清水エスパルス戦。先制される展開の中、逆転弾を決めたのは、つまり横浜フリューゲルスとして最後のゴールを決めたのは、吉田だった。

「いろんな思いを抱えながらも、とにかく、素晴らしい仲間と1日でも長くサッカーをしたいという思いだけで突っ走っていましたが、その思いが僕たちを勝たせてくれたんだと思います。あの経験は…寂しい記憶でもありますが、自分のサッカー人生にはかけがえのない時間になりました。」

その吸収合併に伴い、翌年、吉田は横浜Fマリノスに移籍したが、厳しいポジション争いの中、なかなか先発出場の機会に恵まれず、翌2000年の途中、彼は当時、J2リーグに所属していた大分トリニータへの移籍を決意する。ビッグクラブからJ2クラブへ、覚悟を秘めた移籍だった。

「マリノスから大分に移籍する決断をする1週間前に大分を視察にいったんです。そしたら練習場もなければ、クラブハウスも更衣室もない。今のような大きなホームスタジアムもなかったですしね。まさにマリノスとは天と地ほどの差があって…でも、それを目の当たりにした時に覚悟が持てたんです。『ここで試合に出られなければ、僕のサッカー人生は終わる』と。だからこそ、大分での5年半は本当にガムシャラに戦い続けた。そういう中でクラブも、少しずつ環境が整っていって…更衣室ができたり、グラウンドができたり、クラブハウスができたり。スタジアムも出来て02年のW杯が開催されたり…そういうクラブとしての成長していく姿を目の当たりにしながら、僕自身も覚悟をもってサッカーに向き合えたこと。また、それまでは当たり前のように思っていた全てのことが決して当たり前ではなく、すごく幸せなことなんだと学べたことや、それによって周りの人たちに感謝の気持ちを抱けるようになった経験は、一人の人間としてもすごく成長できた時間だったように思います。」

中でも大分でのラストイヤーとなった05年。シーズン途中に監督に就任した、シャムスカ氏との出会いは、今でも彼にとって印象深い出来事として記憶に刻まれている。

当時、勝ち点では最下位タイの17位に低迷していた大分の監督に就任し、勝者になるためのメンタリティを植え付けたシャムスカ氏はわずかな期間で、J2降格の危機にさらされていたチームを蘇らせる。結果、この年、大分は、残り12試合での『勝ち点18』の目標を大きく上回る『勝ち点23』(7勝2分3敗)の成績を残しJ1残留を決定。そのミラクルを世間は『シャムスカ・マジック』と称えたが、当時、シャムスカ監督とともに仕事をした吉田は、それが『必然だった』と振り返った。

「シャムスカが新監督に就任し、練習内容は多少は変わったけど、とりたてて特別な練習をした訳でもなくて。ただ、就任後、最初の試合となった浦和戦に向けてのトレーニングで1週間『浦和は確かに強いけど、大分が勝つことは決まっている』ということを言い続けたんです。自分たちがやることをしっかりやれば、大分たちが勝つのは分かり切ったことなんだ、と。そのことをあたかも当然のように選手に伝え続け、それによって選手のメンタルが日に日に変化して行くのが感じられた。ちなみに、当時の浦和は、連勝記録を伸ばしながら、首位争いをしていたんですけどね(笑)。しかも、その浦和戦で、実際に勝者となったのは僕らでしたから。それによってチームが大きく変わったというか。目の前の試合にビビらずに立ち向かえる準備さえしっかり出来れば、必ず結果はついてくるということを、僕を含めた選手全員が身を以て体感できたことによってチーム全体に自信が備わった。あとは、簡単に言うとチームワークですね。シャムスカは選手だけでミーティングする時間もすごく作ってくれたんですが、そうした時間を通しても互いが意見をぶつけるようになり、本当にチームが一つになる空気感があったし、それが勝つためには大切なんだということを改めて学ぶことができた。そのことは、後のサッカー人生にもすごく活かされました。」

その大分でのパフォーマンスが認められ、06年。吉田は「もう一度、優勝を争うチームで戦いたい」との思いのもと横浜Fマリノスに復帰を果たすが、その翌年の07年。同シーズン限りでの契約満了を告げられる。07年はリーグ戦の半分以上の試合に先発出場をしていた中でのまさかの通達に「そのタイミングでの引退も考えた」そうだが、それを引き止めたのが神戸からのオファーだった。

「初めての戦力外通告に気持ち的にもガクっときて引退も考えたんです。でも、そのことが新聞に載ってすぐに、当時、神戸の代表取締役社長だった安達貞至さんから連絡をいただいて、神戸に来ないかと誘ってもらった。そのことはすごく嬉しかったんですが…正直、本当に引退も考えていたからこそ即答できなかったんです。でも、時間が経つにつれて地元のクラブでプレーしたいという思いが強くなり、現役生活を神戸で締めくくろうという思いで移籍を決断しました。」

08年、神戸に加入した吉田は、前半戦こそ途中出場が多かったものの終盤戦に差し掛かったあたりでレギュラーに定着。翌年以降もポジションを2列目に下げるなどしながら、チームの中心選手として活躍する。だが一方でチームの成績は、毎年のように残留争いに巻き込まれ、苦しい戦いを強いられるシーズンが続く。中でも10年のJ1リーグ戦は吉田の脳裏に今もはっきりと刻まれてる。この年の最終節、降格圏の16位で最終節、アウェイでの浦和戦を迎えた神戸は、その一戦を4-0で圧勝。それだけでは残留を決められなかったが、同節で残留争いのライバルだったFC東京が京都に敗れたことで、神戸は奇跡の残留を実現する。この年、シーズン終盤になってレギュラーの座を取り返していた吉田は、その浦和戦にも先発出場。緊張の漂う一戦で先制点を含む2ゴールを挙げ、プレーでもメンタルでもチームを牽引し続けた。

「こんなことが起きるなんて信じられないし、本当に嬉しい。でも、強いチームになるためには、今日のようなサッカーを1年通して続けられるチームにならなければいけない。」

その存在感が認められ11年にはキャプテンに就任。12年はケガもあって戦列を離れることも多く、チームもJ2降格の現実を突きつけられるなど苦しいシーズンになったが、降格が決定的になったことで、移籍当初の「チームが苦しい時に力になれる選手になりたい」との思いが蘇り、彼は頭の中に浮かんでいた『引退』の二文字をかき消して、現役続行を決める。

「僕のサッカー人生、残留争いも何度も経験し、苦しい思いもしてきたけど、その現状から逃げずに戦ってきたことで今の自分がある。ここで自分だけ逃げ出す訳にはいかない」

そんな思いのもとプロ19年目のキャリアをスタートさせた今季だったが、冒頭の本人の言葉にもあるように、結果的に思うように試合に絡めないシーズンになったことが引き金となり、彼は『引退』を決断する。引退を決めた選手の殆どがそうであるように、今も心の奥底では『現役』に未練がない訳では決してない。だが、プロとして常に自身に『結果』を強いて戦い続けてきたプロサッカー人生だったからこそ、そこに甘えをみせることを他ならぬ彼自身が許さなかったのだろう。だからこそ、公式戦のピッチに立てず、ゴールを奪えなかった自分に決断を下した。

「ここまで本当にいろんな人に支えてもらいました。いろんな指導者の方と出会い、学び、素晴らしい仲間とともにサッカーをできたからこそ、今の自分があるんだと思う。また、いつも献身的に僕を支え、食生活の管理など、いろんな面でのサポートをし続けてくれた妻や家族には心から感謝しています。それら全ての人がいなければここまで頑張ってくることが出来なかった。今シーズンは自分の思いに反して、昇格の力には殆どなれなかったけれど、大好きな仲間と一緒に、昇格に向かって喜びや苦しさを一緒に乗り越えてこれたことは本当に嬉しかった。

その引退発表から4日後の28日。前日、アウェイで行われた38節の鳥取戦のメンバーから外れた吉田は、いぶきの森練習場で行われた関西大学との練習試合に先発出場した。いつもと変わらない姿で時に味方を鼓舞し、アドバイスを送りながら、全力でプレーする。この日は前半だけの出場になったものの、チームとしての2点目、23分にFW都倉賢が決めたゴールをアシストでお膳立てすると、3点目は彼が放ったシュートのこぼれ球をMF三原雅俊が押し込み、相手を突き放した。他の若手選手に混じっても、決して見劣りするとも思えないそのパフォーマンスに、勝手ながら『引退』の決断がまだ早かったのではないかという思いが過り、試合後、素直にその言葉を彼にぶつけてみる。するとこんな言葉が返ってきた。

「正直、引退を発表した今でも…まだやれるかもなって思いは正直あります。若手に伝えたいこともまだまだあるし、僕のプレーを見て感じ取って欲しいなって思うこともある。でもこの神戸に移籍をする時に、神戸で引退すると決めていましたから。実際、マリノスを戦力外になり、安達貞至さんからすぐに電話をもらった後、当時の強化部長だった和田昌裕さんと話をした時に伝えていたんです。『僕はこの神戸で現役をします。神戸を自分にとって最後のクラブだとして戦います』と。和田さんが覚えているかどうかは分からないですけどね(笑)。でも自分の中でそういう覚悟をもって神戸に移籍し、結果、6年間にわたってプレーすることができましたから。毎年、引退を覚悟しながらもクラブからも求めていただいた中で、自分が所属したクラブの中では最長の6年という時間を過ごさせてもらったのはすごく幸せだったし、ましてや、ここは僕の地元ですから。いろんな人が近くで応援してくれる心強さを感じながら戦ってこれたこと、『地元出身の僕らが頑張って神戸を盛り上げたい』という意識でプレーしてこれたことは1プロサッカー選手としてすごく幸せなことだった。だからこそ、ここで引退します。といっても、全く実感はありませんけどね(笑)。きっと今季の最終戦が終わって『もう次の試合の準備をしなくていいんだな』って思った時に本当の意味で引退を受け入れられるのかもしれません。」

天皇杯をすでに敗退している神戸にとって、今季の公式戦は残すところJ2リーグ戦、4試合となった。その4試合に向け「昇格を決めるために、監督が『勝てるメンバー』を選ぶのは当然のことですから。僕自身もそこに食い込むために、とにかく最後まで全力でプレーするだけです」と吉田。これまでのサッカー人生においても、また、出場機会に恵まれなかった今シーズンも、プロとしてただひたすらに先発のピッチを目指し戦い続けてきたように、最後まで自らとの戦いを続け、先発のピッチを目指し続ける覚悟だ。いかなる時も絶やすことなく燃やし続けてきた『ゴール』への執念を、最後の最後まで、煮えたぎらせながら。

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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