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オバマ大統領広島訪問と沖縄の歴史から考える、私たちが平和のためにできること  

徳力基彦noteプロデューサー/ブロガー
(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

オバマ大統領が現職の米国大統領として初めて、被爆地である広島を訪れスピーチをおこないました。

一つ一つの言葉が良く練られたものであることを感じられる歴史的なスピーチだったと思いますし、スピーチの後に被爆者の方々と交流される姿が非常に印象的でした

オバマ大統領の広島スピーチ全文 「核保有国は、恐怖の論理から逃れるべきだ」

広島への原爆投下から71年になります。

謝罪の言及の不足や、退任前であることから来る実行力の不足など、様々な批判もあるようですが、被爆者の方々の年齢を考えると、実際にこうして米国大統領が歴史の生き証人である被爆者の方々と直接交流をするという機会は、今、このタイミングでなければ永遠に実現しなかった可能性もあるわけで、歴史的な出来事であることは間違いないでしょう。

特に個人的に印象に残ったのは、オバマ大統領らしい「we can ~」を繰り返し使っていた、私たちが未来に向けてできることの呼びかけです。

「私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。」

オバマ大統領のような権力のある方がスピーチをしていると、ついこうした活動は政治家や官僚が考えることであって自分には関係ない、と思ってしまうかもしれませんが、明らかにこのオバマ大統領の「私たち」は私たち日本人、特に一般の人々も含んだ全人類に対するメッセージです。

沖縄戦でおこってしまった強制集団死

実は今週、私はたまたま沖縄にブランドサミットというイベントで出張する機会があり、沖縄の読谷村でおこった悲しい戦争の講話を聞く機会がありました。

記憶の限りでご紹介しましょう。

1945年8月6日の広島への原爆投下に先立つこと4ヶ月前の1945年4月1日、沖縄の読谷村や嘉手納町、北谷町のある嘉手納海岸に米軍が上陸作戦を展開します。

お話しによると、読谷村にはもともと飛行場が建設中であったため、激しい空襲の対象となっており、住人に対して避難命令が出ていたそうです。

既に日本軍は主力を沖縄本島の南部地区に移動させており、読谷村には避難のための移動手段を持たず、避難自体を諦めた女性と子供、そして高齢者が残っていたようです。

その人々が米軍の上陸前の激しい砲撃を避けるために避難していたのが沖縄で「ガマ」と呼ばれる洞窟でした。

140人中84人が亡くなったチビチリガマ

読谷村には、二つの有名な「ガマ」の逸話があるそうです。

一つ目の「チビチリガマ」と呼ばれるガマでは、凄惨な強制集団死がおこってしまいました。

洞窟から出た住人と米軍の兵士が鉢合わせし、老人数人が竹槍を持って反撃。

当然のように老人達は銃で撃たれ、なんとか洞窟に連れ戻されたものの死亡してしまったそうです。

それをきっかけに、洞窟から出るに出られなくなった住人は、「自決」を口にすることになります。

当然、全員が簡単に自決を決意したわけではなく、洞窟の中では激しい口論が行われたようですが、米軍に捕らわれて辱めを受け殺されるぐらいなら、洞窟の中で潔く死にたい、と看護師が保持していた自決用の毒により亡くなる方、自ら毛布に火をつけて焼死する方、次々に多くの住人が死んでいったそうです。

最終的に、数十人はガマを出て米軍に投降し生き残ることができたそうですが、チビチリガマにいた140人のうちなんと84人もの方がこの「強制集団死」によって亡くなってしまいました。

84人の半数が12歳以下の子供だったそうです。

チビチリガマの入り口にある慰霊碑
チビチリガマの入り口にある慰霊碑

母親が自らの子供に火をつけ、その後自らも命を絶つという光景を皆さんは想像できますでしょうか。にわかには信じがたい行為がこのガマでは次々におこってしまったことになります。

母親からすれば自らの命と引換にでも救いたかったであろう我が子の命を。自らの手で断たなければならないという決断をしてしまったわけで、このガマの中が異様なパニックに包まれていたことは我々素人でも容易に想像されます。

当時このガマの空気を支配してしまったのは、このガマでリーダー的存在にあった元軍人の方が「鬼畜米英」という言葉に代表されるような「米軍は鬼畜だから何をされるか分からない」という印象を強く持っており、「日本軍もアジアで捕虜に酷い仕打ちをしてきたのだから、鬼畜である米軍はもっとヒドいことをするに違いない」という思い込みを住人に強く植え付けてしまったことが影響しているようです。

戦時中、多くの人が同様の思い込みを持っていたことを考えれば、このガマがこうした空気に包まれた背景は想像できなくはありません。むしろ当時の日本であれば発生しやすい現象だったと言えるかもしれません。

700人以上の全員が助かったシムクガマ

一方で、このチビチリガマからさほど遠くないところにある「シムクガマ」でも、同日同じように、米軍から投降を促されるという状況に陥ります。

この洞窟には700人を超える住人が避難しており、チビチリガマと同じように洞窟内で議論が白熱することになります。

しかし、最終的にはこのシムクガマの住人は全員投降を選択し、無事に米軍に収容される結果となったそうです。

シムクガマは今でも中に入ることができます
シムクガマは今でも中に入ることができます

人数や起こった出来事の違いはあれど、この二つのガマの運命を分けた最大のポイントは、シムクガマには、ハワイに住んだ経験のある人物がいたからだそうです。

この人物は自らがハワイで経験した米軍の印象を元に「米軍は一般人に対してそんなことはしない」と住人達を説得し、自らが率先して米軍との交渉に臨むことで、チビチリガマと同様のパニックが引き起こされることを回避しました。

ハワイ帰りの人物といえど、チビチリガマの悲劇を考えれば、この人物の意見が700人以上の住人の中で圧倒的少数意見だったことは容易に想像できます。

当然、投降を口にするこの人物を「非国民」と非難する人も多数いたようです。

しかし、最終的には、この人物が、勇気を持って自らを「非国民」と非難する他の大勢の住人を説得したことで、大勢の命が救われることになりました。

オバマ大統領のスピーチにおいても、宗教が殺人許可証になってしまったり、国家が人々から人間性を奪うことの危険性への警鐘がならされていましたが、国全体がそういう空気に包まれている中で、少数の人間が反論をするというのは非常に難しいことです。

ただ、その少数意見こそが大勢の命を救うこともある、ということを私たちはチビチリガマの惨劇とシムクガマの逸話から学ぶことができるはずです。

一人や二人の意見でも、パニックの連鎖を止めることができるのです。

一人で米兵と米国と日本をつないだ森重昭さん

今回のスピーチの後に、オバマ大統領から声をかけられ感極まった老人が大統領にハグをされるという非常に印象的なシーンがありましたが、実はこの森重昭さんという方はアメリカ人にも被爆者がいる事を知り、彼らの名前を被爆者名簿に載せる努力を40年間ひとりで続けて来られた方だそうです。

ひとりで平和を紡いできた森重昭さんというひと

被爆して亡くなったアメリカ兵の名前と遺影が被爆者名簿に登録されたのは平成16年といいますからつい10年ちょっと前のこと。

どれだけ苦労をされたのかと言うことが良く分かります。

恥ずかしながら私はその活動のことを今回初めて知りましたが、米国監督によってドキュメンタリー映画にもなっているそうです。

ある意味、日本にも森重昭さんのような方がいたからこそ、アメリカにとってはパンドラの箱的な位置づけでもあった大統領による広島訪問が、今実現できたということが言えるのかもしれません。

憎しみの連鎖を止めるために、一人の人間ができることというのは実は大きいということを学ぶことができるはずです。

広島と長崎と沖縄だけの話ではない

ひょっとしたらこういった話は沖縄や広島の話だから、沖縄出身や広島出身じゃない自分達には関係ないと思ってしまう人もいるかもしれません。

でも違うんです。

沖縄上陸戦は、1945年4月1日に実施されましたが、当時米軍においては、すでに1945年11月には鹿児島への上陸作戦が、翌年の1946年3月には関東地方への上陸作戦が計画済みだったそうです。

もし太平洋戦争が長引いていたら、沖縄でおこった集団強制死と同じ悲劇が、鹿児島、九州、そして関東と、全国でチビチリガマで発生した強制集団死と同じことが複数おきてしまっても全くおかしくない状況だったわけです。

戦争講話の語り手の方の言葉を借りると

「もし鹿児島や関東でも沖縄でおきたことと同じことがおきたら、もっと大勢の方がなくなっていたことになります。

もしその時に皆さんのお爺さんやお婆さんが、読谷村のチビチリガマで亡くなった方々と同じように集団強制死の犠牲になっていたら、皆さんのお父さんやお母さんが生まれていないかもしれません。」

当然、私たちの中のさらに大勢の人達が、そもそもこの世に生を受ける機会すら奪われていたかもしれないわけです。

1945年11月に予定されていた鹿児島への上陸作戦や1946年3月に予定されていた関東への上陸作戦が実行されずに済んだのは、皆さんご存じのように、日本軍が8月14日にポツダム宣言を受諾し、8月15日に昭和天皇の玉音放送によって敗戦を認めたから。

本土決戦や一億玉砕を主張する強硬派がいたにもかかわらず、日本軍が敗戦を早期に認めることになったのは、4月の沖縄戦の結果はもちろん、8月6日に広島、そして8月9日に長崎に原爆が投下されたことが影響しているのは間違いありません。

今の私たちの平和どころか、私たちの存在自体が、ひょっとしたら広島や長崎、そして沖縄の方々の犠牲によって、生まれたものなのかもしれないのです。

憎しみの連鎖を止めるためにできること

シムクガマや森重昭さんの逸話のような、一人一人の行動の重要性は、何も戦時中のことだけに限りません。

今回のオバマ大統領の広島訪問の直前に、沖縄において元米兵が引き起こした痛ましい死体遺棄事件がありました。

それによりメディアでは米軍基地に対するデモが大きく報道されていましたが、一方で28日には、沖縄の国道で炎天下の中、多数のアメリカ人が「沖縄と共に悲しんでいます」というプラカードを持って頭を下げているという話が話題になりました。

うるま市の死体遺棄事件を悼むプラカードを掲げる米国人に反響

ツイッターに投降された頭を下げるアメリカ人たち
ツイッターに投降された頭を下げるアメリカ人たち

当然、元米兵が引き起こした事件は許されるものではありませんし、米軍基地と沖縄の方々の間に複雑な関係が存在するのも事実ですから、それがこうした謝罪だけで全てが雲散霧消して消えるわけでは決してありません。

ただし、一人一人がこうして何かの行動を取ることで、憎しみの連鎖を止めることができるかもしれないのです。

オバマ大統領の言葉をもう一度引用します。

「私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。

戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。」

私たち一人一人にも、平和のために、暴力のない世界をつくるために、何かできることがあるのかもしれません。

noteプロデューサー/ブロガー

新卒で入社したNTTを若気の至りで飛び出して、仕事が上手くいかずに路頭に迷いかけたところ、ブログを書きはじめたおかげで人生が救われる。現在は書籍「普通の人のためのSNSの教科書」を出版するなど、noteプロデューサーとして、ビジネスパーソンや企業におけるnoteやSNSの活用についてのサポートを行っている。

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