“瀕死”の日テレバラエティを救った男は誰か。その驚くべき方法とは何か

1978年~1999年の民放各局のゴールデンタイムにおける年間平均視聴率の推移

現在、民放のトップを独占し黄金時代を迎えている日本テレビ。

だが、1980年代半ば、日本テレビは「低迷期」を迎えていた。

当時、日本テレビはトップを走るフジテレビに大きく水をあけられただけでなく、TBSの後塵も拝していた。

特にバラエティ番組の不振は目を覆いたくなるほど惨憺たる状況だった。

60~70年代、日本テレビは井原高忠の作るバラエティ番組を中心として黄金期を迎えている。その頃はTBSと日テレが2強だった。だが、井原が制作局長という管理職に就き現場を離れた78年前後からその勢いが失われていく。井原は80年に日テレを退社。それが象徴するように、日テレは急速に低迷していった。80年代前半にフジテレビに年間視聴率で抜かれると、年を追うごとに水を開けられ、TBSに次ぐ民放3位が定位置になってしまった。読売ジャイアンツのナイター中継は安定して高視聴率を維持していたが、バラエティ番組は『元気が出るテレビ』など一部の例外を除き目立つものがなくなっていった。

出典:『1989年のテレビっ子』(双葉社)

そんな瀕死の日テレバラエティを救ったのが、土屋敏男である。

土屋敏男といえば作り手として『進め!電波少年』シリーズや『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』などで「日テレ式ドキュメントバラエティ」を完成させた人物。このドキュメントバラエティの形式は現在も『世界の果てまでイッテQ!』などに続く日テレバラエティのお家芸となっている。実際、この土屋による『電波少年』や『ウリナリ』と、五味一男らによる『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』や『マジカル頭脳パワー!!』などで90年代日本テレビは復活を果たした。

だが、土屋敏男の真の“功績”はそれだけに留まらない。

それが「編成」としての実績だ。そのことについて詳細に綴っているのが『1989年のテレビっ子』(双葉社)だ。

「編成」の土屋敏男

「制作」として『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』や萩本欽一の番組などを手がけていた土屋が「編成」部に異動になったのは1989年頃だ。編成部とはその名の通り、どの番組をどの時間帯に放送するのかを編成する部署。

前述のとおりこの当時、日本テレビのバラエティはフジテレビに大きく水をあけられていた。

番組作りのノウハウはもちろん、なによりキャスティング力でフジテレビにまったく敵わなかった。

その象徴がとんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンといったこの時期に台頭していた新世代の雄たちだ。

彼らはもともと日本テレビの『お笑いスター誕生!!』出身者たち。

だが、80年代後半、彼らの活躍の場はほぼフジテレビが独占状態にあった。

その3組を日本テレビに引き戻し、看板番組を持つように導いたのが「編成」の土屋敏男だったのだ。

土屋がまだ「制作」にいた頃、関東ではまだ無名だったダウンタウンの存在をいち早く知り、菅賢治とともに和歌山で行われたコンサートにまで出向いたのがダウンタウンとの出会いだった。その後始まった『夢で逢えたら』(フジテレビ)の収録現場に他局にも関わらず通いつめ親交を温めると同時に、菅とともに作ったお昼の恋愛バラエティ『恋々!!ときめき倶楽部』のレギュラーに抜擢。土屋が「編成」に異動すると真っ先に企画を通したのが『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』だった。

ウッチャンナンチャンともやはり他局の『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)に通い詰めたのがスタートだった。普通なら1回、多くても数回で見学を終えるテレビマンが多い中、土屋は“見学のレギュラー”という摩訶不思議なポジションになり、それが『ウッチャンナンチャンwith SHA.LA.LA.』を開始させ、その後、作り手として手腕を発揮した『ウリナリ』に繋がっていくのだ。

とんねるずも同様だった。今度もやはり他局の『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ)に通い始めた。

『ねるとん』の収録後、必ず出演者やスタッフが一緒になって食事に行っていた。

「あれは誰?」

石橋貴明は、訝しげにその見覚えのない赤塚不二夫似の男を眺めていた。とんねるずは当時、いわゆる“身内”しか付き合っていなかった。だからその“怪しい”男が気になっていた。

土屋はあえて自分からすぐに挨拶に行くようなことはしなかったという。

(略)

収録に訪れ始め、何度目かの時だった。土屋は石橋とともに麻雀を打った。そのうちに石橋の大きな役に、土屋が振り込んだのだ。大きな手で上がって喜ぶ石橋に土屋は言った。

「名刺代わりです」

ようやく、土屋敏男は石橋貴明に自己紹介をしたのだ。

出典:『1989年のテレビっ子』(双葉社)

こうして土屋と石橋貴明は「ツッチー」と「貴ちゃん」と呼び合う仲になっていったが、土屋はなかなか自分から「番組をやってほしい」と言い出すことができなかった。

そうこうしているうちに土屋は「編成」から再び制作部に戻った。

それから少し経って、土屋のもとに石橋から連絡があり二人で会食。

そのときに石橋から新番組の提案を受けるのだ。

それが『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』だった。

このように土屋敏男は作り手としては「日テレ式ドキュメントバラエティ」を確立し、「編成」としてはその後、日テレの黄金時代を支える演者を日本テレビにもたらしたのだ。

60~70年代、一度「黄金期」を迎え、その後、80年代に「低迷期」に陥った日本テレビ。

その姿はどこか現在のフジテレビを思わせる。フジテレビもまた80年代「黄金期」を迎えたもののその後「低迷期」に陥っている。

だが、日本テレビは90年代に復活し第2の「黄金時代」を迎えた。

ならば、フジテレビにも復活の可能性がないはずがない。

現在のテレビ界にとって日テレの復活劇は“希望”だ。

各局が切磋琢磨し、抜きつ抜かれつを繰り返すことこそテレビをおもしろくするものなのだ。