Yahoo!ニュース

インディーズアカデミシャンのススメ

矢萩邦彦アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授

「社会学って要するにどういうことなんですか?」僕が良く聞かれる質問の一つです。「矢萩さんは社会学者なんですか?」とも。そもそも学者というのは何なのでしょうか。「アカデミー」の起源はプラトンの「アカデメイア」で、それは「想起の場」でした。ソクラテスは生前「学習とは想起することだ」と言っていました。そこで弟子のプラトンはそのための「場」を作ったわけですが、ということは、学者とは「想起する人」といえるかもしれません。自分の経験を、見聞を想起しつつ考えるんですね。

◆在野の学者がいてもいい

僕は大学には所属していません。しかし、そういう在野の学者が小さくなって、びくびくしていたらいけないと思うんですね。学問はどこだって出来ます。「場」が必要なら、自分で自分なりのアカデメイアを作ればいい。そもそも独学が出来ない人のために、先達は学校を作ったはずです。もちろん歴史ある機関で積み上げてきた文脈に乗る学者は必要だと思います。でも同時にインディーズのアカデミシャン、つまり非属の学者や研究者がもっと元気に発言した方が健全ではないでしょうか。学者だって多様性が必要で、型にはまるだけでは社会科学とはいえません。僕は「社会」をテーマにした学を志しています。だから、僕は堂々と社会学者「も」名乗ります。かつての僕が大学や学会などに所属して社会学を志そうとした際、二つほど悩みがありました。一つは、社会学というカテゴリーの中に身を投じることは、実は反社会的なのではないかということ。もう一つは哲学との境界線が分からなかった。今となっては、そういう社会学というものがそもそも科学的になることを半ば拒むような現象に立脚していることも理解出来ますし、故に哲学とは当然曖昧になってくることはアドルノがとっくに示唆していたことでした。

◆社会学ってなんだろう

社会学というのは、「自分」や「自分以外」の関係についての学です。社会とは「自分と自分以外から成る世界」のことですね。つまり、とらえ方によっては何でも社会学に成り得ます。そして、いかなる組織にも所属していない自由な個人は、所属のある社会学者以上に客観的な視点を持てる可能性があると思います。社会を科学的に研究すると言うことは、社会を一般化すると言うことです。つまり、法則のようなものを見つけ、応用可能にするわけですが、そういう風に社会を抽象化することは、実は反社会的だとも言えます。もし「社会」というものが存在するのならば、それは私たちが参加している世界であり、手に届く世界のことです。しかし、抽象概念としての社会は、私たちが所属している実感が欠如しています。そういうものを「社会」と呼んでよいものかどうか、僕にはピンと来なかったんですね。

◆ポップやロックに考える

というわけで「学」にすること自体がちょっと合わないのが「社会」だったりすると思うのですが、そんなことを言い始めると堂々巡りになってしまいます。要するに僕らは社会に生きている社会の一部で、そこで起きることについて考えてみることが、すでに社会学で、同時に哲学なのだと思います。僕らは何か考えた時点で、違和感を感じるロック・アカデミシャンや、とりあえずライトに考えてみるポップ・アカデミシャン、あるいは様々な意見を取り入れるジャズ・アカデミシャンなんですね。毎日がライブで、ジャムセッションです。基礎とルールが分かれば誰でも参加出来るような、それでいて究めようと思えば果てしなく高みにも登っていけるような、そんな感覚で学問に関われたら楽しいですよね。特に教育に関わる人がそういう気持ちで臨むことで、教育現場の閉塞感を打破できるような気がしています。(矢萩邦彦/studio AFTERMODE)

アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授

1995年より教育・アート・ジャーナリズムの現場でパラレルキャリア×プレイングマネージャとしてのキャリアを積み、1つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を探究するアルスコンビネーター。2万人を超える直接指導経験を活かし「受験×探究」をコンセプトにした学習塾『知窓学舎』を運営。主宰する『教養の未来研究所』では企業や学校と連携し、これからの時代を豊かに生きるための「リベラルアーツ」と「日常と非日常の再編集」をテーマに、住まい・学校職場環境・サードプレイス・旅のトータルデザインに取り組んでいる。近著『正解のない教室』(朝日新聞出版)◆ご依頼はこちらまで:yahagi@aftermode.com

矢萩邦彦の最近の記事