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「デスブログ」といういじめ

山口浩駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

あるタレントのブログを「デスブログ」と呼ぶ人たちがいる。「このデスブログに書かれた人物や企業などはかなりの確率で不幸に見舞われるため、「デスノートのブログ版」としてこの名が定着している」(ニコニコ大百科による説明)のだそうだ。今問題になっているボーイング787旅客機についてもこのブログで言及があったという情報が出ていたが、それだけでなく、少なくとも過去数年にわたって、数多くの例で、何かよくないことが起きるとこの「デスブログ」が検索され、「ほうらやっぱり書いてあったやっぱりデスブログだ」と囃し立てる事例が、少なくともネット上では相次いでいる。

この件、前々から気になっていた。これは「いじめ」ではないのだろうか。

誰のブログであれ、特定のブログが「デスブログ」であるという科学的根拠はない。そのブログに何か書かれたことによってその対象に悪いことが起きる、という事実はない。一般の人々がすべて科学的根拠に基づいて発言すべきだとは思わないが、少なくともそうした「デスブログ」騒ぎが、客観的には事実ではないという点について、議論の余地はないものと思う。「いやある」と思う人は、小学校から教育を受け直すとよい。

根拠はないことはわかっているがネタとして面白いから取り上げている、というのがふつうだろう。からかっている、ぐらいの気持ちなのかもしれないし、直接このタレントに向かって言っているわけではないからいいということなのかもしれない。このタレントについて私はほとんど何も知らないが、そういうからかいを受け入れるキャラクターなのかもしれない。

とはいえ、皆がよってたかって「デスブログだ」と囃し立てるさまは、見ていてどうにも気分がよくない。この図式を、たとえば学校のクラスの中で、特定の生徒のノートを「デスノートだ」と騒ぎ立てている図と見立てたら、これはいじめとしか映らないだろう。あるいはネットの中でも、たとえばツイッターで多くのフォロワーを持つ子役タレントに対して、同じようなことをツイッター上でたくさんの人たちが発言していたら、やはりネット上のいじめだと受け取るのが常識的なのではないか。

大人のタレントに対しては何を言ってもいい、という発想なのだろうか。有名人だから何を言われても我慢すべきだと?根拠のある批判ならそれもある程度はいえるかもしれないが、これはそういう話ではない。当然だが、このタレントは、別に旅客機に悪さをしたわけでもパンダの赤ちゃんを殺したわけでもない。にもかかわらず、こんなことを言うのは、クラスメートに「お前汚いからあっちいけ」と言うのと同じレベルの、言いがかり以外の何物でもない。このまとめは、この文章を書いている時点では50万以上のアクセスがあり、141人がお気に入りにし、381人がリツイートし、304人が「いいね!」をしている。もちろんこの他にも、この手のものは山ほどある。これが「皆でよってたかって」でないとしたら何だというのか。

本人は気にしないと言っているのかもしれない(実際どうなのかは知らない)が、本人が気にしていないからいじめてもいいというのは、いじめ事件でしばしば見られる、いじめた側の言い訳とそっくりだ。このタレントが有名人であるという点をふまえれば、こうしたいじめが放置されているから、いじめが許される行為と思う子どもが出てくるのだ、ぐらいのことは言ってもいいのではないかと思う。

いじめについては、いろいろな人が「許されない」と発言し、いじめる人たちに対する厳しい批判も多くみられる。にもかかわらず、「デスブログ」については平気で囃し立てるさまは、私にはどうにも不可解だ。仮に百歩譲って、当該タレントに何か批判されるべき理由があるとしても、「だからといっていじめていい理由などない」というのがいじめに関する一般的な考え方ではないのか。

「そこまでおおげさに言わなくてもいいじゃん」といった声が聞こえてきそうな気がする。確かに私が考えすぎなのかもしれない。しかし、いわれもない批判(直接本人に言ってないからいいというなら、「陰口」と言い換えよう)を寄ってたかってしながら平気でいられる人が、したり顔で「いじめは許さない」とか言っても、説得力はない。少なくとも私にとっては。その上であえて断言するが、もし私の考えが少数派なのだとしたら、いじめ問題の「解決」などまず不可能だろう。「デスブログ」を見て人々が笑う構造こそが、いじめの温床そのものだからだ。

駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

専門は経営学。研究テーマは「お金・法・情報の技術の新たな融合」。趣味は「おもしろがる」。

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