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【東京五輪】最終プレゼンの立役者 パラリンピアン佐藤真海は復興五輪のシンボル

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

■義足のロングジャンパー

世界の各方面から絶賛された、2020年オリンピック招致に於ける東京の最終プレゼンテーション。高円宮妃久子さまの流麗なトリリンガルぶりに皇室の品位と底力を感じ、フェンシング太田雄貴の発信した「アスリート・ファースト(選手第一)」の理念にスポーツライターとして心を揺さぶられ、滝川クリステルの「お・も・て・な・し」の美しさは今なお耳の奥で心地よく響いている。

そんな中、久子妃殿下の「東日本大震災復興支援感謝スピーチ」に続き、プレゼンテーションメンバーのトップバッターとして登場した31歳のパラリンピアン、佐藤真海が果たした役割は極めて大きかった。

オリンピックに出場した選手を「オリンピアン」と呼ぶのに対し、障害者のための最大のスポーツ競技大会であるパラリンピックに出場した選手は、「パラリンピアン」と呼ばれる。佐藤は陸上の走り幅跳びで04年アテネ大会、08年北京大会、12年ロンドン大会と3大会連続でパラリンピックに出場している義足のロングジャンパーだ。

骨肉腫に冒されて右足を切断した19歳の少女に、生きる力を与えたスポーツの力。東日本を襲った大地震による津波で、ふるさとを引き裂かれた被災者に希望を与えるアスリートの力。

佐藤は、すべて自分の身に降りかかった出来事から感じたことを、余すところなく訴えた。情感を忍ばせた手のしぐさと、穏やかな笑みに込められた思いの丈は、IOC委員だけではなく、スポーツを愛する世界中の人々に届いた。

パラリンピアン佐藤とはどのような選手なのか。まずは生い立ちから現在までを駆け足で紹介する。

■19歳で骨肉腫、20歳で右足を切断

佐藤は1982年3月12日、宮城県気仙沼市で生まれた。家族は両親、兄、祖母。実家の目の前には太平洋が広がり、裏には山があった。のどかな自然に囲まれて育ち、遊びと言えば屋外ばかり。兄や兄の友人と一緒に、野球、ローラースケート、バドミントン、昆虫採集、鬼ごっこ、かくれんぼと、外でできる遊びは何でもやった。日本の原風景といえる環境で、まっすぐに育った。

スポーツは小さい頃から得意だった。気仙沼小1年に上がる直前からスイミングスクールに通い始め、小4からは選手育成コースに移り、県大会で活躍した。

気仙沼中時代から仙台育英高校時代にかけては文武両道を目指し、部活は陸上部に所属。高校を卒業すると早稲田大学に進学し、チアリーディング部に入った。

右足首を突然の痛みが襲ったのは01年。大学2年の夏だった。最初は捻挫だろうと思っていたのだが、なかなか引かない。12月、痛みに耐えかねて病院に行くと、小児がんの一種である「骨肉腫」であることが判明した。すぐに緊急入院。足を切断しなければならないことも告げられた。

活発なスポーツ少女だった佐藤は、自分の足がなくなることをどうしても受け入れられなかった。苦しい抗がん剤の治療の最中、担当医に「自分のお子さんでも切断しますか」と尋ねたことがある。医師は「もちろん僕の子どもだったとしても切る。命のほうが大切だから」と静かな口調で即答した。無情だが、これが現実だった。

■スポーツに救われた

02年4月、20歳のときに右膝から下を切断。退院してからしばらくすると、切断前に担当医から「今はいい義足があるし、スポーツもまたできるようになるでしょう」と言われたことを思い出すようになった。絶望の暗闇の中で、小さな小さな明かりを灯してくれたのが「スポーツ」だった。

最初に行ったのはプールだった。おそるおそる義足を外してプールに入ると、驚いたことに小学生のころの記憶が体に残っていた。「泳げる!」という感触がうれしく、切断から1年2カ月後の03年6月には早くも障害者水泳大会に出場した。

水泳の次に“再会”したのが陸上競技だった。一般の人が使う義足よりもバネの強い「スポーツ義足」を作ってもらうと、普通なら走れるようになるまで2年かかるようなところを(バネが強いため、扱いが難しい)、佐藤はわずか2カ月でマスターした。良いコーチ、良い義足に恵まれて記録はメキメキ伸びていった。

すると、04年の障害者陸上大会で、思いも寄らぬ記録が出る。アテネパラリンピックの代表選手選考会を兼ねたこの大会で、それまでの自己ベストを一気に50センチメートルも上回る3メートル66の日本新記録をマーク。アテネパラリンピックの参加基準を満たす数字でもあった。

佐藤はその後、北京パラリンピック、ロンドンパラリンピックにも出場している。決して順風満帆なだけではなかったが、北京後には踏み切りの足を健常な左足から義足の右足に変えるなど、競技者としての向上心はとどまることなく、記録をさらに伸ばしている。

今年4月にブラジルで行われた大会では5メートル02のアジア新記録をマークし、同7月の世界選手権では初めて銅メダルを獲得した。ロングジャンパーとしていまも成長し続けている31歳のベテランアスリートだ。

■東日本大震災でふるさとの家族が被災

足を失うという大試練を乗り越えてきた佐藤に、再び大きな試練が訪れたのは11年3月11日だった。気仙沼市は大きな揺れと津波に襲われ、夜には街中が火の海となるような火災も起きた。

テレビにリアルタイムで映し出される大火災の様子を見つめる佐藤の心中はいかばかりだったか。家族と連絡が取れなかったのだ。

「震災から6日間、家族が無事かどうかわからなかった」ということは、9月7日のブエノスアイレスでの最終スピーチでも話していた。幸いなことに家族は無事だったが、その次に直面したのは、愛する故郷が、東北が、日本が、深い悲しみと絶望に包まれてしまったことだった。

それを癒やす一助になったのが、スポーツの力だった。

佐藤がスピーチで「日本、そして世界のアスリートたちが被災地に約1000回も足を運び、5万人以上の子どもたちに感動を与えています」と披露したように、震災後は被災地に多くの競技の多くのアスリートが足を運び、地域の人々や子どもたちとふれ合っていった。

筆者が取材してきた、主にサッカーを中心とする選手たちは、震災直後こそ一様に「自分の無力を痛感している」と言いながらもすぐに顔を上げ、「自分にできることは何か。できることなら何でもやりたい」と、それぞれの行動に移していった。

被災地での活動後はこれまた一様。「被災者の方々から逆に力をもらった」というコメントを何人のアスリートから聞いたか。ロンドン五輪前の12年5月には体操の内村航平選手らが宮城を訪れたが、内村もそう言っていた。また、そのときは体操協会主催の被災地訪問だったが、「自分も行きたい」と申し出て内村らに混ざって参加したのは、フェンシングの太田雄貴選手だ。太田選手も同じような感想を口にしている。

被災地で逆にもらったというパワーが12年ロンドン五輪でのメダルラッシュに結びつき、50万人が祝福した銀座パレードに結びつき、ひいては東京五輪の支持率の向上に結びついたことは言うまでもない。

■支持率向上の裏にあったアスリートの被災地活動

2016年の五輪開催地にも立候補していた東京は、50%台という支持率の低さがあだとなり、あっさりと招致合戦に敗れた。戦いの土俵にも上がれていないような様だった。

2回連続立候補の今回、招致委員会が大きな課題として手をつけたのは、支持率を70%まで上げようということだった。ロンドン五輪で日本勢が空前のメダルラッシュとなったことが支持率を押し上げたというのは前述の通りだが、筆者は支持率向上にはもう一つの要因があると思っている。

それは、アスリートたちが被災地に足を運んで子どもたちと触れあうことで、子どもたちに笑顔が生まれたことであり、その笑顔こそが未来を輝かせるものであると多くの人々が気づかされたことだ。

アスリートが内包する、苦境に負けない強い心は傷ついた子どもたちに自然と伝わったのだろう。アスリートがふさぎ込んでいた子どもたちから笑顔を呼び起こすのを目の当たりにしたとき、そこにあるスポーツの力がくっきりと浮かび上がり、それによって支持率が上昇したのだと思う。

■未来へ向かう力

佐藤はアテネパラリンピックがあった04年にサントリー(現サントリーホールディングス)株式会社に入社した。本社は東京都港区台場。7年後、東京五輪の各競技会場が建ち並ぶことになるベイエリアにある。佐藤が日ごろトレーニングの拠点としている陸上競技場も近隣エリアにあり、ここも大会会場や練習会場となる予定だ。これも何かの縁だろう。

数々の困難を乗り越えながら、いつも前向きに生きている佐藤は復興五輪のシンボル。そして、佐藤という存在の向こう側には、佐藤のように強いアスリートが何人もいる。東京五輪招致成功によってますます世界から厳しい目を向けられることになる原発問題を筆頭に、日本全体が困難に立ち向かうという宿命を負っている今。スポーツの力は、ひいては未来に向かうすべての人々の力となりうる。

ブログ Mami's Diary - パラリンピアン佐藤真海の日常

佐藤真海選手 美しい走り幅跳びのフォーム

サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

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