Yahoo!ニュース

【スピードスケート】 小平奈緒はなぜ「怒った猫」なのか?

矢内由美子サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター
今季W杯女子500mで出場6レース全てに優勝している小平奈緒(写真:アフロスポーツ)

■『BOSE KAT』ってどういう意味?

オランダのリンクに行くと、スタンドのファンから威勢の良い声が掛かる。

「BOZE KAT(ボーズカット)!」

“怒った猫”を意味するオランダ語は、小平奈緒(相澤病院)のニックネームだ。

穏やかなタイプの彼女からは想像しにくい、ちょっと不思議なこの愛称は、小平にとって、オランダで武者修行した日々の勲章でもある。

ニックネームの名付け親は、マリアンヌ・ティメル。2014-15、2015―16シーズンと2シーズンにわたってオランダでトレーニングをしていた時期に小平を指導したプロコーチだ。

長野五輪とトリノ五輪で計3つの金メダルを獲得した元トップ選手であるティメルは、2011年に現役を退いた後に指導者となり、オランダのプロチームのコーチとして活動している。元金メダリストとしてのメンタリティーやモチベーションの持ち方はまさしくプロフェッショナル。それは、小平がティメルの下で学びたいと思った大きな理由でもあった。

昨年12月にあったオランダ・ヘーレンフェーンでのW杯で、観客から親しみを込めて声を掛けられている小平の姿を見たティメルは、笑みを浮かべてこう言った。

「ナオはこの愛称があって良かったわね。みんなに知ってもらえているもの」

■フォームを矯正するため

ティメルが小平を「BOZE KAT」と呼び始めたのは、14年12月のW杯ソウル大会だった。

そのころ、小平のスケーティングフォームには小さな欠点があった。腰を低くした姿勢を目指して下半身の筋力アップを図り、狙い通りに重心の低いフォームを手に入れたまでは良かったが、必要以上に頭の位置が下がり過ぎていたのだ。

「頭が下がりすぎよ。それではダメ。もっと肩を上げて、そして重心の高さは…」

細かいことをいくら説明されても、渡蘭1年目の小平は、まだオランダ語のニュアンスを十分に理解することができなかった。うまく修正できずにいる小平に、ティメルは言った。

「怒った猫になりなさい」

怒った猫は背中を丸めて相手を威嚇する。肩は少しつり上がっており、重心は低くても肩と頭は下がりすぎていない。「怒った猫」のイメージで滑るスケーティングフォームは、ティメルが小平に伝えたかったフォルムとピタリ一致した。

「日本人は頭が前につんのめりがちなんです。それを見たマリアンヌが、修正のために『怒った猫』と言い始めたんです」(小平)

ニックネームは修正点を端的に表現する言葉だったのだ。

フォームの修正に成功した小平は、W杯ソウル大会で自身初のW杯優勝を飾った。28歳で初めて表彰台の真ん中に立ったのだ。以後、ティメルは小平を「BOSE KAT」と呼ぶようになった。そして、いつしかファンにも広まった。スケート王国の人々から認められたという証でもあった。

「今ではメンタリティもスケートのフォームも、全部ひっくるめて『怒った猫』になりました。実際の私は、ネコ派ではなくてイヌ派なんですが…」

微笑んでそう話すことからも分かるように、小平もこの愛称を気に入っているようだ。

■「怒った猫」で頂点を目指す

小平は今季、ずば抜けた好成績を収めてきた。シーズン開幕初戦である10月の全日本距離別選手権(長野・エムウェーブ)で国内最高記録を連発し、11月から始まったW杯では女子500mで負けなしの快進撃を続けている。

順位はもちろんのこと記録を見ても安定感は抜群。1月27日のW杯ベルリン大会では、記録が出にくい低地のリンクでありながら、13年11月に高地のソルトレイクシティーで出した自らの日本記録(37秒29)に0秒14差まで迫る37秒43で優勝。翌28日は2位に0秒71の大差をつける37秒57で連勝した。今季W杯は出場した6戦すべてに勝利を収める、ぶっちぎりの強さだ。

「怒った猫」のフォームを習得した小平は、オランダで過ごした1年目のシーズン、W杯総合優勝を飾った。女子では島崎京子以来、史上2人目だった。オランダでの2年目は、乳製品のアレルギーが出たことでシーズンを通して体調が悪く(オランダの食事は乳製品がとても多い)、W杯では6位が最高で国内でも勝てないほど苦しんだ。

3年ぶりに生まれ育った信州に拠点を戻した今季は、体調がすっかり戻ったうえに、オランダで身につけた技術と、日本のスケート文化の中に根付いているコーナーの技術を融合させた滑りで結果を出している。今季のフォームは、つねに自分に合ったスケートを追い求めてきた小平が、傷つきながらつかんだ結晶だ。

次の試合は2月9日開幕の世界距離別選手権(韓国・江陵)。1年後に控える平昌五輪のテストイベントを兼ねている大会とあって今季は目立った活躍を見せていないバンクーバー五輪、ソチ五輪の女子500メートル金メダリスト、李相花(イサンファ、韓国)が満を持して出場してくるのは間違いない。平昌五輪を見据え、極めて重要な勝負になる。

そのベースにあるのが「怒った猫」。小平は、「以前は力づくでやっていたが、今回は体がしなやかに動いているという感覚がある。動かすタイミングが良くなっているのかなと思う」と手応えを感じ取っている。

長く彼女を指導している結城匡啓コーチも「今季の小平は今までよりベースがひとつ上がっている」と太鼓判を押す。

小平は今、言葉や生活習慣の違いなど、さまざまな苦労を乗り越えながら、自らの目と耳と感覚で得たものをもとに、自らが編み出した自分流の滑りを誇りに感じながら戦っている。目指すのは3度目となる五輪で世界の頂点に立つこと。まずは五輪本番リンクで行なわれる世界距離別選手権に注目だ。

【スピードスケート】24年ぶり快挙の小平奈緒に見る“28歳のブレイクスルー”

不調だった昨シーズンも丁寧に取材対応していた小平(撮影:矢内由美子)
不調だった昨シーズンも丁寧に取材対応していた小平(撮影:矢内由美子)
サッカーとオリンピックを中心に取材するスポーツライター

北海道大学卒業後、スポーツ新聞記者を経て、06年からフリーのスポーツライターとして取材活動を始める。サッカー日本代表、Jリーグのほか、体操、スピードスケートなど五輪種目を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー「Olympic Road」コラム連載中。

矢内由美子の最近の記事