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「ラーメンの神様」が遺してくれた5つのこと

山路力也フードジャーナリスト
山岸さんが昭和30年に生み出した「特製もりそば」。当時は一杯40円だった。

16歳で始まったラーメン人生

つけ麺の生みの親にして、東池袋大勝軒創業者の山岸一雄さんが、4月1日、心不全のため都内の病院にて逝去された。享年80歳。「ラーメンの神様」と呼ばれ、孫弟子も合わせると300人以上ものラーメン職人を輩出し、多くのファンを魅了し続けてきた山岸さん。60年にわたるラーメン人生の中で、ラーメン界に多くのものを遺していった。

山岸さんは1934(昭和9)年、長野県に生まれた。16歳の時に上京し、最初は旋盤工として働いていたが、幼い頃から可愛がってもらい「兄貴」として慕っていた又従兄弟である故坂口正安氏に請われる形で、阿佐ヶ谷にある「栄楽」に入り半世紀以上に渡る長きラーメン人生が始まった。坂口氏は独立開業するにあたり栄楽で修業をしていたが、開業時には山岸さんに手伝って貰いたいと考えていた。

当時16歳、若くて身体もがっちりとしていた山岸さんが任された仕事が「製麺」だった。当時は現在と違って粉と水を練り上げるのも、生地を伸ばすのも全てが手作業。山岸さん自身は早くスープ作りをしたかったそうだが、この時期の経験が後に唯一無二と言われる自家製麺が生まれる礎になったのだ。

つけ麺誕生の瞬間

栄楽は丸長や丸信などと同じく長野出身者がグループで経営していたため、店の間での人の交流も多かった。ある時、荻窪の丸長へ行って麺作りをしていた山岸さんが、ある光景を目にした。それは丸長の先輩たちが湯のみ茶碗にスープを入れ、茹でた後に余って集めておいた麺を日本蕎麦のようにつけて食べている姿だった。忙しい時にサッと食べられる賄い飯のようなものだったが、それを見た山岸さんは自分も賄いとして食べるようになった。

1951(昭和26)年、山岸さんは坂口氏と共に栄楽での修業を終えて「中野大勝軒」を創業。その4年後には代々木上原に本店を構え、中野の創業店は山岸さんが店長として任されることとなった。夏の暑い時期、当時のラーメン店では冷やし中華が定番のメニューだった。しかしタレや具材をラーメンとは別に仕込むのは手間がかかる。夏にさっぱりと食べられるメニューで、冷やし中華以外のメニューは出来ないだろうかと考えていた山岸さん。ある時、いつものように賄いで麺をスープにつけて食べていたら、常連客が「美味しそうだね、食べさせてよ」と言って来た。食べさせたところ「これは美味しいからメニューにした方がいい」と言われて、本格的にメニュー開発へと取り組むこととなり、1955(昭和30)年、中野大勝軒の正式なメニューとなった。これが「つけ麺」誕生の瞬間だ。

当時の価格は一杯40円、ラーメンよりも手間がかかる分5円高かった。タレが甘酸っぱいのは冷やし中華からの発想。麺の量が多いのは、お客さんにお腹いっぱい食べてもらいたいという思いもあるが、大食漢の山岸さん自身が満足出来る量でもあった。メニュー名は日本蕎麦の「もりそば」のように食べるので「特製もりそば」と名付けた。

その6年後、1961(昭和36)年に山岸さんは独立し「東池袋大勝軒」を創業。「特製もりそば」は開店当時から中華そばと並ぶ二枚看板として売り出した。発売当初はどうやって食べたらいいか、食べ方すら分からない客がほとんどだったが、少しずつ人気が出ていつしか大勝軒といえば特製もりそば、とまで言われるようになっていった。それから長年にわたり行列を作り続け、行列するラーメン店の嚆矢的存在にもなった。店を共に支えてきた最愛の奥様が先立たれた時は、閉店も考え店をしばらく閉めていた山岸さんだが、店のシャッターに貼られた再開を待ち望む多くの常連客の激励の言葉に背中を押され、再び店を開け厨房に立ち続けた。その後、長年の立ち仕事がたたって足を傷めてしまい、長時間厨房に立つことは出来なくなってしまったが、それでも毎日店に出て開店時には必ず厨房で麺を上げていた。

長年にわたり愛されていた東池袋大勝軒は、店の場所の再開発もあって2007年に惜しまれつつ閉店。閉店日には全国各地にいる山岸さんの弟子や、別れを惜しむ多くのファンが集まり、小さな店の周りには驚くほどの人が詰めかけた。しかし、多くの営業再開を求める声に応える形で、以前あった店から程近いところで新たな東池袋大勝軒が創業。店は弟子に任せ、山岸さんは毎朝スープの味見をして、開店前からお店の前に座り、にこやかにお客さんを出迎えた。山岸さんは晩年体調を崩して入退院を繰り返すこととなったが、それまではどんなに店が人気になろうと大きくなろうと、お店から離れることはなかった。山岸さんはいつもお客さんのそばにいたのだ。

山岸さんが遺してくれたもの

山岸さんはお子さんがいなかったため、弟子が子供代わりであった。だから弟子たちには自分の味を包み隠さずすべて教えた。山岸さんの下で修業して「大勝軒」の暖簾分けを許された店が全国にいくつもあるが、山岸さんは暖簾代もロイヤリティも一切取らなかった。さらには雑誌でレシピをすべて公開したこともあった。今や当たり前のようにラーメン店のメニューとして並んでいる「つけ麺」だが、それを創り出した山岸さんが自分の味を多くの人に伝えたいという思いが広がっていった結果なのだ。

そしてつけ麺だけではなく、山岸さんがラーメン界に遺したものは限りない。かつて、ラーメンに餃子、ラーメンにチャーハンなど、ラーメンという食べ物は一杯で満足出来る食べ物ではなかったが、それを一杯でお腹いっぱい満足して貰おうというボリュームにしたのも、山岸さんが草分けであったろうし、まるでうどんとも見紛うような太麺でしなやかでコシのある自家製麺を創り出したことで、ラーメンにおける麺の可能性を広げ、さらにスープ一辺倒だったラーメンにおいて麺の存在を高めたのも山岸さんだ。また、日本蕎麦由来のカツオ節など魚介の旨味に対して、骨のみならず挽肉などの肉の旨味をぶつけることで、動物系と魚介系の両方のパンチが効いたいわゆる「豚骨魚介」とも呼べるスープの方向性を最初に提示したのも山岸さんではないかと思う。

「ラーメンの神様」山岸一雄さんが、本当に神様になってしまった。これからもずっと弟子たちのことを、そしてラーメン界のことをにこやかに見守り続けてくれることだろう。通夜は7日、葬儀は8日に東京都文京区大塚5の40の1、護国寺桂昌殿で執り行われる。

フードジャーナリスト

フードジャーナリスト/ラーメン評論家/かき氷評論家 著書『トーキョーノスタルジックラーメン』『ラーメンマップ千葉』他/連載『シティ情報Fukuoka』/テレビ『郷愁の街角ラーメン』(BS-TBS)『マツコ&有吉 かりそめ天国』(テレビ朝日)『ABEMA Prime』(ABEMA TV)他/オンラインサロン『山路力也の飲食店戦略ゼミ』(DMM.com)/音声メディア『美味しいラジオ』(Voicy)/ウェブ『トーキョーラーメン会議』『千葉拉麺通信』『福岡ラーメン通信』他/飲食店プロデュース・コンサルティング/「作り手の顔が見える料理」を愛し「その料理が美味しい理由」を考えながら様々な媒体で活動中。

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