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ピコ太郎人気で再びオーダー増 なぜ、沖縄でパンチパーマが絶滅しないのか

與那覇里子沖縄タイムス デジタル編集委員
1979年、10度目の防衛戦を制した具志堅用高さん。アフロヘアがトレードマークに

「PPAP」で世界を席巻しているシンガーソングライターのピコ太郎さんを見て、正直、驚いた。2016年にもなってパンチパーマの歌手が支持されるなんて。

実は、パンチパーマは全国的には「絶滅危惧種」だが、なぜか沖縄で生き残っている。そのため、筆者は精力的に取材をしていた時期があり、ピコ太郎さんの髪型に目を奪われたのだった。すでに沖縄では、「ピコ太郎さんと同じ髪型にしてほしい」とパンチパーマをオーダーする20代もいる。沖縄の男性パーマの変遷をひもといてみる。

沖縄のパーマの歴史

沖縄では戦後、理容免許は琉球政府が発行した。沖縄県内の理容師の技術が乏しい中、本土から講師を招き、伝授された髪形の一つが、当時1万円前後と高値の男性用パーマだった。

1960年ごろの本土では、ヒッピーのロングヘアが流行し、理容室の利用回数が激減。客を呼び戻そうと力を注いで開発した技術が、大仏の髪形に似た細かいパーマヘアだった。

本格的な理容技術が沖縄に持ち込まれたのは本土復帰の1972年ごろ。時を同じくして、当時本土で流行していた男性パーマが沖縄を席巻した。記録はないが、理容師らによると、男性パーマはこの年に興隆期を迎えたという。

仕上がりに約2時間。「男らしく見える」「パーマはオシャレ」。沖縄県内でも広がり始め、髪質が硬いウチナーンチュには「セットがラク」「短くて涼しい」と定着した。本土と沖縄の流行のタイムラグがぐっと縮まった。

沖縄の理容店。男性パーマ「インペリアル」の文字が中央に大きく書かれている
沖縄の理容店。男性パーマ「インペリアル」の文字が中央に大きく書かれている

パーマの種類もいろいろ

男性パーマは髪を巻くロッドが細く、高度な技術が必要とされる上、実践で習得するしかない。慣れない理容師は、客の頭皮をみみず腫れにしてしまうことも少なくなかった。

男性のパーマは主に「パンチ」「インペリ」「アイパー」の3種類。6~8ミリのロッドで巻くと、ふわりとした優しい印象の「インペリ」で、細いアイロンで細かく巻けば「パンチ」になる。1973年ごろ、「エンペラー」「インペリアル」「ハワイアン」と呼び名は分かれたが、最終的に「インペリ」が広まった。

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髪の毛にクセをつけ、リーゼント風に仕上げる「アイパー」(アイロンパーマ)は歴史が古く、1894年ごろからある。火鉢で熱した金属を道具に、1950年ごろから沖縄県内でも普及した。

ピコ太郎人気で20代もパンチパーマをオーダー

沖縄の理容店の老舗、那覇市若狭の「ヤング」本店によると、昭和のころはパーマをかける客が1店舗当たり1日4~5人いたが、平成に入って徐々に減り、2016年10月現在では月2~3人にまで激減したという。特に50歳以上の客に支持されている。

ただ、成人式前後だけは、1日30人以上がパーマをかけにくる。ここ数年はパンチより、アイパーが増えている。沖縄の20代から30代の若手理容師にはパンチができる人がほとんどいないため、紹介された老舗に訪ねていくこともあるという。

そして、「ヤング」代表の中眞太さんによると、ピコ太郎さんの「PPAP」の人気に火がつき始めた10月ごろから、パンチをオーダーする20~40代男性が増えているという。「1日に4~5人からピコ太郎さんの髪型をしたいとオーダーされる日もある。ビックリしていますよ」と笑うが、「パンチは絶滅危惧種ですからね。一過性かもしれない」と定着には疑問符。実際、客の多くは結婚式の余興、ハロウィーンの仮装のための「かりそめのパンチ」のようだ。

具志堅用高さんに聞いた

沖縄出身でパーマをかけた有名人といえば、ボクシング元世界チャンピオンの具志堅用高さん。筆者は4年前、具志堅さんに髪型についてインタビューをしたことがある。

1979年、10度目の防衛戦を制した具志堅用高さん。アフロヘアがトレードマークに
1979年、10度目の防衛戦を制した具志堅用高さん。アフロヘアがトレードマークに

世界王者になった76年、普通のパーマからロッドの細かいアフロに変身した。「床屋の大将に勧められてさ」とアフロに変えた理由を語っていた。以来35年間、髪形と理髪店の浮気はせず、月に1回、3時間かけて手入れしてきた。「チャンピオンの時のイメージを壊さないようにしているよ」とイメージチェンジは考えていない様子だった。

沖縄で続くパーマ文化について具志堅さんは、「まだやってるわけ?」と驚いた。「沖縄の人はやっぱり熱心。オシャレにしてるんじゃない?」と、“沖縄パンチ派”の象徴は感心しきりだった。

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沖縄タイムス デジタル編集委員

1982年那覇市生まれ。2007年沖縄タイムス社入社。こども新聞、社会部(環境、教育などを担当)を経て2014年から現職。2015年、GIS沖縄研究室研究室、首都大学東京渡邉英徳研究室と共同制作した「沖縄戦デジタルアーカイブ」が文化庁メディア芸術祭入選など。 2019年3月、首都大学東京システムデザイン研究科卒業。大学在学中から、若者文化を研究し、著書に2008年「若者文化をどうみるか」(アドバンテージサーバー)編著など。

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