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羽生結弦が全幅の信頼を寄せるスケート研磨師は、東北のアイスホッケーチームで腕を振るう<その1>

加藤じろうフリーランススポーツアナウンサー、ライター、放送作家
羽生結弦(写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ)

フィギュアスケート日本一の座を争う第85回全日本フィギュアスケート選手権大会が、明日から門真市(大阪府)で幕を明けます。

大会5連覇の期待が高まっていた羽生結弦は、インフルエンザのため欠場することが発表され、残念に思っているファンの方も多いでしょうが、その羽生から全幅の信頼を受けている男が、日本のアイスホッケーチームにいることを、ご存知でしたか?

八戸市(青森県)を活動拠点とする東北フリーブレイズで、選手たちのスケートの研磨を担当している吉田年伸(44歳)です。

▼アイスホッケーに初めて接したのは、英語の単位をもらうため

日本、韓国、中国、ロシアの4か国から9チームが参戦している「アジアリーグ」に加盟しているフリーブレイズは、参戦8季目ながら、これまでに3度の優勝を誇り、9月に行われた「ピョンチャンオリンピック最終予選」の日本代表メンバー4人が在籍しています。

そのフリーブレイズで、昨季から選手たちのスケートの研磨を担っている吉田が、アイスホッケーに初めて接したのは、高校時代のことでした。

彼が進んだ仙台育英高校は、各運動部が、同じ仙台市内にある東北高校と激しいライバル関係にあり、吉田が1年生の時に習った英語の先生から、「アイスホッケーを始めたら単位をあげると言われたのがキッカケだった」のだそうです。

「スケートすら満足にやったことはなかった」と言いながら、アイスホッケーを始めたものの、当時の吉田の関心は、もっぱら音楽一辺倒。

卒業後は上京し、ギターを造る技術を学ぶ専門学校で学びながら、音楽活動に没頭していました。

しかし27歳の時、東京を離れて再び仙台へ戻ったあと、フィギュアスケーターの阿部奈々美と結婚。

ディズニーオンアイスに出演したり、トリノオリンピックで金メダルを獲得した荒川静香の振り付けを担当した奥様とともに、「仙台近郊ではスケート用品を手に取って、選ぶことができない」との思いから、2008年7月にアイスリンク仙台の近くに、スケートショップ「NICE」を開きました。

▼東日本大震災がスケートショップを襲う

小学4年生の頃から、奥様が羽生の指導にあたっていた縁もあり、吉田のスケートショップには、少年時代の羽生をはじめ、同世代のトップレベルの選手たちが来店。

当時の羽生は、まだタイトルを手にしていなかったこともあり、スケートの研磨に対しても「とても真剣に取り組んでいた」そうで、吉田は「研磨してくださいって、ほぼ毎週ショップにやってきていましたね」と振り返ります。

ところが、そんな状況を一変させる出来事が起こりました。2011年3月の東日本大震災です。

「借りていた店舗が傾いてしまって、危ないから出ていってくださいと言われましたし、店舗の賃料も結構な金額でした。その上に当時は並行輸入で安価な商品を購入する人もいましたから、これが潮時なのかなと・・・」

「閉店」や「廃業」という言葉が脳裏をよぎったと、当時の胸の内を明かしてくれました。

▼スケートショップを再開した吉田に訪れた転機

しかしながら、吉田を慕う人たちから、再開を望む多くの声が集まり、電気も通っていない中、発電機を頼りに、7月には店舗をオープン。

再び通い始めた羽生とも「いろいろなやりとりをしながら、試行錯誤を重ねていった」そうで、10月頃から「研磨をして、滑ってもらって、意見を聞いて、また研磨をして、滑ってもらって、という毎日が4か月くらい続いた」とのこと。

その成果から羽生は、この年(2011-12シーズン)の世界選手権で、初出場ながら総合3位の成績を収め、銅メダルを獲得。

吉田への称賛の声も高まり、フィギュアスケートとのかかわりが、さらに深まっていくと思われましたが、彼の人生に転機が訪れます。

転機をもたらせたのは、他ならぬ吉田の長男の存在でした。

フリーランススポーツアナウンサー、ライター、放送作家

アイスホッケーをメインに、野球、バスケットボールなど、国内外のスポーツ20競技以上の実況を、20年以上にわたって務めるフリーランスアナウンサー。なかでもアイスホッケーやパラアイスホッケー(アイススレッジホッケー)では、公式大会のオフィシャルアナウンサーも担当。また、NHL全チームのホームゲームに足を運んで、取材をした経歴を誇る。ライターとしても、1998年から日本リーグ、アジアリーグの公式プログラムに寄稿するなど、アイスホッケーの魅力を伝え続ける。人呼んで、氷上の格闘技の「語りべ」 

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