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昭和6年から羽田・大阪・福岡の国際飛行場に職員が常駐して気象情報を提供

饒村曜気象予報士
羽田空港(写真:アフロ)

明治43年(1910年)12月19日、東京・代々木練兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が日本で初飛行に成功しています。

飛行時間は4分、最高高度は70メートル、飛行距離は3000メートルでした。実際には5日前の14日に飛行が成功していましたが、公式の飛行実施予定日でなかったため、「滑走の余勢で誤って離陸」と報告されています。

ライト兄弟から7年後

ライト兄弟がアメリカのノースカロライナ州のキティホークで、世界初の有人動力飛行に成功したのは明治36年12月17 日です。

これまで多くの人が空を飛ぼうとしてきましたが、いずれも、単に浮かび上がることしかできなかったのに対し、浮かび上がったあとに飛行を自在にコントロールできるという意味で、初めてめ実用化した空飛ぶ乗り物、飛行機の誕生です。

このニュースは、世界中の冒険家たちを熱狂させ、日本でもライト兄弟の初飛行から、わずか7年後に徳川大尉が日本の空を飛んでいます。

日本でも明治末になると、東京湾の遠浅海岸や埋め立て地を利用して飛行機の発着を試みる人たちが誕生しています。

明治45 年5 月に千葉県稲毛の砂浜に、奈良原三次が飛行機発着場と簡易格納庫を建鼓したのが民間航空の始まりですが、稲毛の他にも、津田沼、船橋、大井などの砂浜から飛行機が飛び立っていました。

大正5 年に日本飛行学校が羽田町鈴木新田(現在は羽田空港の敷地内)に建設され、パイロットの養成を始めますが、飛行機が安全に離着陸できる広い無人の砂浜は、そう多くはありませんので、海や川、湖といつた水面に降りるため、車輪のかわりにフロート(浮き) をつけた水上機もよく使われました。フロートは空中で大きな抵抗を受けるために飛行性能がおちるのですが、飛行場がほとんどない時代ですので、行動範囲を広げるためにはやむおえない選択でした。

陸軍と中央気象台は航空業務を支援

陸軍は、軍事目的のため、大正11年(1922)に東京立川の基地内に飛行場を開設します。しかし、郵便物の輸送など、民間利用の要望から、翌年3月にできた逓信省航空局に、その業務の一部を移管します。ここから、民間目的の航空行政が始まつたともいえますが、実質上は陸軍の助けを借りていました。

また、大正末期から昭和初期にかけて、航空機の民間利用が実用化のきざしを受け、中央気象台(現在の気象庁)では、大正12年(1923)年3月に航空気象を業務に付け加えています。当時の飛行機は、全てが有視界飛行で、気象条件に大きく左右されていたからです。

水上飛行機も着陸できる羽田に空港建設

飛行機の性能が向上し、民間航空機の需要が拡大してくると、陸軍施設に間借りする形ではいろいろな問題点がでてきました。

そこで逓信省航空局では新しい首都飛行場の建設を計画します。

昭和4年4月には、立川にある陸軍飛行場を、民間でも公共用に使用するために東京飛行場と呼び、民間飛行場としての準備を進めます。

そして、東京府羽田町鈴木新田の北側の埋め立て地16 万坪(48 ヘクタール)を飛鳥組(現在の飛鳥建設)の飛鳥文吉から買収し、3年計画で飛行場を建設します。飛鳥組は、日本の近代化に伴い、この地方での工業用地が不足するとして埋め立てを行いましたが、昭和4年に起きた世界大恐慌の影響による不況で売れない状態でしたので、簡単にまとまった土地が入手できました。

それ以上に、羽田が選定された理由に、水上機の離発着が可能な海老取川に面しているということがあります。多摩川の派川である海老取川は、いつもある程度の深さがあり、東京湾からの直接の波が入ってこないため波が高くならないなど、水上機の離発着に最適と考えられた川でした。

飛行場(空港)には気象台がある

昭和6年(1931年)8月に東京府荏原郡羽田町に羽田飛行場ができると、中央気象台ではすぐに分室を設置し、職員が常駐して気象情報の提供を始めます。

当時、羽田、大阪、福岡の3ヶ所が国際飛行場でしたので、同時に大阪飛行場には大阪支台(現在の大阪管区気象台)木津川分室、福岡飛行場には福岡支台(現在の福岡管区気象台)名島分室が設けられています。

大阪飛行場と福岡飛行場は現在地と違い、大阪は羽田と同じ陸上機と水上機の併用空港、福岡は水上機専用の空港でした。

国の組織である中央気象台の下にあって、重要な仕事を分担していたのが支台ですが、大阪と福岡の他は、箱根上空を飛行する飛行機を支援するために作られた静岡県の三島支台(現在の三島特別地域観測所)しかなく、中央気象台が如何に航空業務に力を入れていたかがわかります。

旅客輸送は絶対安全であることが求められますが、経済性・定特性や快適さも求められます。そして、これらは気象に深く関係しているからです。

飛行機が進歩し、全てが有視界飛行という時代ではなくなってきてはいますが、絶対安全や経済性、快適性ということが求められていることは、いまでも同じです。

主な空港には気象台や測候所などが設置され、航空機のためにきめ細かい観測を行い、航空機に特化した予報を行うことで航空業務を支援しています。

例えば、羽田空港には東京航空地方気象台がおかれ、14台の風向風速計を設置するなどして過密ダイヤの羽田空港の安全を支えています

追記(12月20日11時)

タイトル画像の奥に見える左側のビルの中に、東京航空地方気象台が入居しています。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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